おはようございます、めぐりずむです(≧▽≦)
突然ですが、今私は、朝に瞑想の時間をとっています。
と言っても、30分間とかがっつりやる系ではありません(どんな系だ?)
たまに意識を飛ばしながら、ユルユルやってます(笑)
以前は瞑想のアプリを使っていたのですが、現在はYouTubeのココイマさんの瞑想導入動画を聴きながら、10~15分ぐらい時間をとってます。
この瞑想動画では、自分の心を癒す優しい言葉をかけてくれるのですが、とある些細な言葉を受け入れられない自分に気づき、驚いてしましました。
その言葉は、
私が幸せになりますように
ね? なんともない言葉でしょ?
でもそれを聴いたとき、心に物凄く抵抗感を感じました。
ということで今回は、「私が幸せになりますように」という言葉に超抵抗を感じた理由を考えてみました。
stand fmにて、音声配信も始めました!
澄まし声で可愛子ぶってやってます(笑)
良かったら是非♪
↓
「私が幸せになりますように」
イマココさんの瞑想動画は、心を軽くしたり、自分を癒す言葉をかけてくれ、色々と気づきを与えてくれます。
今回聴いていたのは、この動画。
イマココさんの声が、超癒しです(*´ω`*)
今回は、この
私が幸せになりますように
という言葉に、物凄く抵抗感を感じました。
心がざわつくというか、悲しいと言うか、上手く言えないんですけどね。
この「私が~」の次には、「大切な人が幸せになりますよう」にと言葉が続くのですが、それは全然平気。
何でかなー?
何でかなー?
私は幸せになっちゃいかんと思ってるのか? と思ったのですが、
私は幸せになってもいい
とか
私は幸せになりつつある
とか。
そういうのは全く大丈夫なんですよね。
それに私自身、結構自分のためにお菓子を買ったりして自分自身を甘やかしてる自覚はあるので、幸せになるな、と考えてないと思うのになーと不思議でした。
「私が」という私限定の言葉が辛かった
結果から言うと、
私「が」
という限定の言葉が辛かったみたいです。
私には家族があります。
子供もいます。
家族の幸せを1番に願う、それが理想とする母親像。
家族の幸せを1番に願う、それが普通の母親。
それなのに、「自分だけが幸せになりますように」と祈るのは、
母親失格じゃね?
家族蔑ろにしてね?
と心が抵抗を示したみたいなんですね。
私が幸せになってもいい
私は家族の幸せを常に願っている。
でも、
その家族の中に、
自分を果たしているのだろうか?
そんなことを突き付けられた言葉でした。
そういう意味では、
私は自分に対して幸せになってもいいと言う許可を与えていなかったんじゃないかなと感じています。
改めて、自分を後回しにして、周りのことばっかり考えてたんだなーと突き付けられました。
母親は、自分を犠牲にして家族に尽くさんとあかん! みたいな昭和?の感じが残っているというか。
よく考えたら、別に私が幸せになってもいい、と許可を出したからと言って、家族の面倒を見なくなるわけじゃない。
だって、私はずっと家族の幸せを願ってきて、さらに自分を幸せにしたいと思っているから。
……自分の幸せを許可しても、なんも生活、変わらんくね?( ゚Д゚)
てか逆に、
家族の幸せを願う
↓
その家族の中に自分も含める
↓
自分が幸せになると余裕が出る
↓
余裕が出た分家族も幸せに出来る
↓
完全にみんな幸せ
↓
パーフェクトやん⁉
別に、なんもわるいことないやん。
むしろ、いいこと尽くしやん?
まとめ
とりとめのない話になりましたが(;^ω^)
自分だけが幸せになる。
その言葉に抵抗感を覚える人は、私以外にもいるのではないでしょうか。
勝手なイメージですけども、私と同じようなお母さんに多いんじゃないかなって気がします。
私が幸せになってもいい。
そう自分に許可を与えることで、もっと自分を労わってあげたいです。
それが、家族の幸せにもつながるので。
ということで今回はこの辺で。
ではでは(*´ω`*)